週に1度はひとり呑みにいく。
しかもカウンターの立ち飲み屋さん。
というと驚かれることも多い。
「変な人に話しかけられない?」
「誰にも相手にされないのも寂しいよね」
もちろん、アラフィフ女ながらも
ほろ酔いのサラリーマンに話しかけられることもある。
そんなときどうするかは、自分の気分しだい。
今日は誰かと話したいなというときは、
ふだんは絶対出会わないような人との会話を
肴にしながらちゃっかり一杯ごちそうになったりする。
本日は放っておいてほしいモードのときは、
適度に相槌でも打ちながら、
テレビで流れているローカルニュースに見入るフリをすればいい。
立ち居振る舞いをコントロールできるようになると、
オンナひとり呑みで面倒くさいこともなく
寂しいわけでもなく
俄然、居心地医がよくなるのだ。
「我、飲みながら考え、考えながら飲む」という言葉がある。
人の心理を紐解いていくには、ワインは欠かせないという意味らしい。
1596年フランス・ロワール地方に生まれた、近代哲学の祖であるデカルトの言葉で、
誰もが知っている「我思う、ゆえに我あり」と同ぐらい有名な言葉だそうだ。
デカルトは若い頃、ヴェネツィア、ローマを渡り歩き、
しばらくパリに住んだ。
その間に、さまざまな学者たちと交友を深めたらしいけど、
つまりは飲み会で、教科書に載るような哲学論も、
「人生とはワインなり」などとほろ酔いで生まれたかと思うとちょっと親しみが湧く。
デカルト、ちょっとかわいい。
デカルトの人生がワインなら、私の人生は濁り酒だ。
遠目からはわからないが、近づいて目を凝らせば瓶の底には白いおりがたまっている。
呑む前には瓶を振って、白く濁った酒をグラスに注ぐ。
しかし、話に夢中になろうものなら、またおりは底に沈み、
攪拌しようとグラスを揺らせば、上澄みだけがテーブルにこぼれるばかり。
どうにかしたい細々に限って、余計なことをするたびにグラスの底へ底へと沈んでいく。
たしかに、
ひとつ終わればまたやってくる締め切り、繰り返す母親とのケンカ、
税金や保険など生きるための手続きは煩雑すぎる。
目じりに増えるシワにため息がもれ、
痩せる体操は続けてもまったく効果が現れない。
生活の中の細々とした問題は「おり」のごとく、
放っておけば静かにまたグラスの底に沈み、
日常は上澄みのように透明になる。
そのままやり過ごせば、きっとつつがなく過ぎていく。
しかし、50女のわたしたちは知っている。
ときには、濁りから目をそらさないことも必要だ。
面倒なことに向き合うのは、やっかいだけれど、
いまやらなければもっと面倒なことになる。
そこで、できる女は、えいっと重い瓶を持ち上げ、
自ら振って人生を白濁させるのだ。
面倒なことも、日々に溶け込ませれば、
わりとラクにこなしていける。
しかし実は、
上澄みだけを味わう呑み方もあるらしい。
さらりとして後味もすっきり。
なるほど、人間関係や恋愛のごたごたとの付き合い方は
さらりとすっきり交わすのもいいのかも。
ときには、氷を入れてロックにしたり、
炭酸水で割ったりして臨機応変に。
若いころなら、
酒好きな私は日本酒の邪道な呑み方は
許せなかったかもしれない。
でも、アラフィフのいまは、
いつも濃い味じゃ飽きるのもわかる。
もし、「この人」という相手が現れたら、
濁り酒本来の濃厚な味わいを楽しむのもオツなもの。
日常は上澄みだけすすり続ける
ときどきダメでもよいと思う。
日本酒は、米とアルコールを発酵させてできた醪(もろみ)を
酒袋で濾してつくる。
目の荒い袋で濾して、
あえて「おり」を多く含ませたのが濁り酒だ。
きっと、もっと緻密で目が細かい袋を通せば、
純米吟醸のようなすっきりとした人生を送れたのかもしれない。
でも、それじゃあ、面白くないのだ。
雑味のある濁った酒を、
ぐいっと豪快にあおれる日もあれば、
そうじゃない日もあるけれど、まあそれはそれ。
これからも自分でときどき瓶を振ったり、
おっくうなときは、誰かに甘えて振ってもらったりしながら、
澄んだり濁ったり、
ときどきシャンとして、ときどきダメな日々を、
あじわっていく。